“影”を作られるに当っての神の配慮を知ることは、すべてが成就されるまではその一点一画もすたれることはない、という(マタイ5:18)正確さへの確信を私達に与えてくれるのみならず、これらの影の意味を綿密に調べ、注意深く探すように私達を導くような、神の計画への非常に深い興味を私達の中に目覚めさせるのである。そして、私達は今、神の約束された祝福の下に、これを行うことを目的とするのである。真に神に献身した者、すなわち、神の霊を与えられた神の子達には、“求めよ、そうすれば与えられるであろう。たたけ、そうすれば開けてもらえるであろう”ということが保証されているのである。
幕屋の構造
幕屋の構造に関してモーゼに与えられた指示は、出エジプト記25章〜27章
見られる。又、その建設事業の記事は、出エジプト記35章〜40章に見られる。簡単に言えば幕屋というのは、金をかぶせたshittim(アカシヤ)の木から作った板を連ねて構成された家であって、その板は座の上に立てられ、金でおおわれた同じ木の横木によってしっかりと止められている。
この建物は、巾15フィート(4.5m)、高さ15フィート(4.5m)長さ45フィートで、正面または東側が開いている。それは、青、紫、赤でケルビムの形を織り込んだ大きな白い麻布でおおわれている。建て物の開いている方、又は東側は、おおい布と同じ材料のカーテンによって閉ざされ、これを“door”又は第一の幕と呼ぶ。“幕”と呼ばれるもう一つの、同じようなケルビムの形が織り込まれた同じ材料の布が下がり、幕屋を2つの部屋に区切っている。巾15フィート(4.5m)、長さ30フィート(9m)の、第一の又は大きいほうの部屋は *“聖所”と呼ばれる。巾15フィート(4.5m)、長さ15フィート(4.5m)の第二の又は後の部屋は、“至聖所”と呼ばれる。この二つの部屋が厳密な幕屋であって、天幕がそれをおおう保護のために建てられた。天幕はカシミヤ布、又はやぎの毛の幕と、赤く染めた雄羊の皮とアザラシの皮(アナグマの皮と誤訳されている)で作られた。
*英訳ではしばしば“聖なる所”と呼ばれるが、その場合には、所という言葉は太字で書かれる。すなわち、それは翻訳者によって追加された言葉であることを示している。例えば、出エジプト記26:33がそうである。この誤りは“庭”が“聖なる所”と正しく呼ばれるので混乱のもととなる。ところが太字で書かれていない時には常に“庭”を意味する。レビ記14:13と6:27を参照せよ。又、時には“聖所”は“会見の幕屋”と呼ばれる。“至聖所”もしばしば“聖なる所”と呼ばれる。――所は太字。例えばレビ記16:17、20、33である。これらの場所を示すのに私達は、各々“庭”“聖所” “至聖所”と呼ぶことにする。これらの模型的描写に対するキリスト者の興味と理解の欠如、及びレビ記者の正確な一致の必要性の欠如は、研究者の混乱を促す様々な翻訳の原因となっているにちがいない。
聖なる庭又は聖なる所
幕屋は“庭”によって囲まれ、その庭の後方に位置している。巾75フィート(25m)、長さ150フィート(50m)のこの庭は、麻のカーテンの囲いによってできている。このカーテンは、重い銅の座にすえられた7.5フィート(2.5m)の高さの木の柱の頂上にtけられた銀のかぎからつるされている。そして、幕屋をおおう天幕のように、ひもとピンで支えられている。この囲いの中はすべて聖なる地域であって、“聖なる所”又は“幕屋の庭”と呼ばれる。その入口は、幕屋の“door”のように東に面し、“門”(gate)と呼ばれる。この“門”は、青と紫と赤で織り込まれている。
三つの入口があることが分るであろう。すなわち庭に入る“門”、聖所に入る“戸”、そして至聖所に入る“幕”であるが、それらはいずれも同じ材料、同じ色であった。幕屋とその庭の外には、ある一定の距離をへだてて、イスラエルの宿営がまわりを囲んでいた。
調度品
“庭”の中にある家具は、主として二つある。すなわち“銅の祭壇”と“洗盤”であって、各々には道具がついている。
幕屋の中のすべての家具が、金、又は金でおおわれているのに対して、“庭”の中にあるすべての家具は銅でできていることがわかるであろう。これらの金属の土台に木が使われたのは、金属で全部が出来ているより持ち運びに容易であるため、その目方を軽くするためであったと私達は信じる。特に彼らが旅をする時には、これは重要な問題であった。これらと同じものを表わす寺院の品物は全部、金で作られていた。(Ⅰ烈王記7:47〜50)
幕屋の中に使われたこの二つの金属、金と銅は、二つの異なった性質を表わしていると思われる。――すなわち、銅は天使より少し低い、完全な状態の人間性を表わし、金は天使、権力、権勢よりはるかに高い神の性質を表わす。金と銅は、その外見において非常によく似ているが、その性質においては異なっている。
宿営、庭、幕屋
同様に人間性は、地上の状態に適合させた神のかたち又は類似である。このように、あがないによって祝福される三つの異なった階級を表わす、はっきりと区別された三つの区分がなされている。すなわち宿営、庭、幕屋とそのうちの一つの階級の中の二つの状態を表わす幕屋の中の二つの部分があることが分る。
“宿営”は、罪ある人類の世界の状態を表わしている。いかにその渇望とうめきが不明瞭に分析されようとも、世界はあがないを必要とし、あがないとその祝福とを待ち望んでいるのである。模型における宿営は、全体として、イスラエルの国を表わし、それは白い麻のカーテンによってすべての聖なる物から分離されている。すなわち、進行の壁の中にいる者は、聖なる物と接することが出来るが、その外にいる者は、カーテンの中にある聖なる物を見たり、それに近づいたりすることを妨げる不信仰の壁を持つことを意味する。“聖なる所”又は“庭”に入る道はただ一つだけである。このように模型は、神に近づく道は一つしかないことを証言している。――それは“門”すなわちイエスである。“私は道であり・・・だれも私によらないでは父のみもとに行くことはできない。”“私は門である”(ヨハネ14:6、10:9)
“庭”は、“門”であるキリストを信じる信仰を通して達せられる義認の状態を表わす。この“庭”の中には、あがないの日に、レビ族(義と認められた信者の模型)だけが入ることを許された。これらの人々は“銅の祭壇”や“洗盤”に近づき、“庭”の中で仕えたが、単にレビ族であるからといって、幕屋の中に入る権利も、その中を見る権利さえ持たなかった。(民数記4:19、20)“庭”のすべての物は銅で作られ、その中に入ることを許される階級は、義と認められた人々であることを示す。祭司が犠牲をささげ、身をきよめるために庭を使ったとしても、“庭”は福音時代の霊的階級を表わすだけではない。
The
Tabernacle and Court
二つの部分を持つ“幕屋”の建物は、人間性から霊性へと性質の変化を経験するすべての人の二つの状態を表わしている。第一の部屋“聖所”は、聖霊を与えられ、神の性質にあずかる者(Ⅱペテロ1:4)となるために、自らの人間性を死に渡し、献身した(レビ族、すなわち義と認められた信者としての)すべての人々の状態を表わしている。“幕”――すなわち死――の向こう側の第二の部屋、“至聖所”は、神性に達する忠実な“勝利者”の状態を表わしている。これらの人々は、死において、彼らの献身を完成した後、第一の復活において死者の中から生まれ神性と神的有機体へと完全に変化させられるのである。人がいかに深い信仰を持ち、すべての罪から清められ、神の目に義と認められ、完全な者と見なされようとも、幕屋と寺院の内部で象徴されるような霊的なものの場所と特権を得ることは出来ないのである。それらを理解するという意味では、人は霊的な物をのぞき見ることさえ出来ないのである。しかし、福音時代の間に、そのような人々が献身し、神に仕えるために自らの人間性を犠牲とし、そのかわりとして霊的な性質を受け継ぐ――キリストの体のメンバーとして――ために“召される”のである。“生まれながらの人は、神の御霊の賜物を受け入れない。・…・・・また御霊によって判断されるべきであるから、彼はそれらを理解することが出来ない”(Ⅰコリント2:14)
幕屋の中のすべての物が、神性を象徴する金で作られているという事実は、それが神聖に召される人々の状態を示していることを暗示している。犠牲をささげるために献身したレビ族に属する者(祭司)だけが幕屋に入ることが出来た。ということは、死に至るまで犠牲を払うために献身した信仰の家族に属する者だけが、幕屋で象徴される神聖な状態に入るのである。
義と認められた人間の状態を示す“庭”には、信仰によってのみ入ることが出来る。しかし、もし私達が性質の変化を体験し、神の性質にあずかる者となるために、“新しい被造物”となり、“天的召しにあずかる者”となるならば、私達を義とする信仰を持ち続けなければならないのみならず、それ以上のことをしなければならない。従って、“聖所”に入ることは、主の奉仕のために完全に献身すること、すなわち霊を与えられ、神性という賞与に向かう競争のスタートを切ることを意味する。――その条件は、義と認められた肉体を十字架につけ、私達の人間としての意志と体とを生きた犠牲として神にささげ、もはや人間的喜び、名誉、誇りなどを求めず、それらに対して死に、天的衝動に生きることによって、私達の献身の誓いに忠誠を尽くすことである。この状態に入るためには、私達は、私達の主キリスト・イエスを通らなければならない。彼は、その血を信ずる信仰による義認の“門”を私達のために開いたのみならず、霊的存在者として私達の義とされた肉体を犠牲にすることによって、第二の幕を通り、それを越えて向こう側へ行く“新しい命の道”に至る幕屋の“戸”(第一幕)をも開いたのである。
このように、幕屋の二つの部屋“聖所”と“至聖所”は、私達が聖霊を与えられる新しい命の二つの部分又は段階を示す。
“聖所”は、真理の言葉を通して(ヤコブ1:18)、神から命を与えられた人々の現在の状態を表わす。天的な心を持つ被造物として、これらの人々は、未だに“肉にある”けれども、真の(内面の)命を持ち、第一の献身の幕の中で、この世の知性的見解や献身していない信者を越えた所を、神と共に歩むのである。これらの人々は、他の人々が“外の暗やみ”にいる時、“金の燭台”から発する内的光を楽しみ、種の入っていない“存在のパン”に象徴されている特別な霊的食物を食べ、金の祭壇にキリスト・イエスを通して神に受け入れられる者をささげるのである。
“至聖所”は、死に至るまで忠誠を貫き、第一の復活にあずかる(黙示録20:6)ことによって高い召しの偉大な賞与を獲得する新しい被造物の完全な状態を表わす。彼らはその時、二つの幕――肉的な心と肉的な体――を越えて、霊的な心と共に栄光に輝く霊的な体を持つのである。彼らは私達の救い主として幕を越えてそこに入り、私達のためにこの新しい生きた道――新しい命の道――を開いた彼らの指導者である先駆者と似た者となるであろう。(ヘブル10:20、Ⅰヨハネ3:2)
“聖所”のなかにいる霊的な心を持つ者は、“幕”の割れ目を通して、肉体を越えた栄光と誉れと不滅を信仰によってかい間見ることにより、“至聖所”を待ち望む。その希望は、その幕を越えて中に入ろうとする者にとっては、魂の確実な不動の錨のようなものである。(ヘブル6:19、10:20)
私達の神性への第一歩である信仰による義認は、主イエス・キリストを通して神との平和の状態に私達を導くことが分る。(ロマ5:1)私達の罪が許される時、又はキリストの義でおおわれると見なされる時、私達は一歩、神に近づくのである。しかしまだ――“庭”の中にいる――人間である。もしキリスト・イエスにあって神の高い召しの賞与を得たいと望むならば、そして“聖所”を通って“至聖所”に入りたいと望むならば、私達は、私達の指導者であり頭である――私達の大祭司、祭司の国である(ヘブル3:1、Ⅰペテロ2:9)――イエスの御跡に従わねばならない。
イエスの御跡
(1)
銅の祭壇で象徴されるキリストのあがないの犠牲を信じる信仰によって、私達は“庭”への“門”を入る。そして不信仰と罪の幕を通過するのである。この段階は、私達のイエスが体験しなかったものである。なぜなら、アダムの種族に属さず、聖にして汚れがなく、罪人とは異なっていたので、イエスは庭の外側の状態にいたことがないからである。
(2)
私達の義とされた人間的意志と人間的野心や希望のすべてを放棄することによって、私達は第一の幕又は人間的意志の幕を通過し、人間的意志は死んだものと見なし、これに一切たよらず、ただ神の意志にのみ頼るのである。ここで私達は、はじめて自らが“聖所”の中における――“天上”又は“神聖”の第一の状態である(エペソ2:6Dioglott)――新しい被造物となったことを知る。そして霊的なものに関して、“金の燭台”(神のことば)によって照らされ始める。すなわち祭司だけが食べる権利のある“供えのパン”で象徴されるように、真理によって日々新たにされ、強められるのである。(マタイ12:4)このように教えられ、強められて日々“金の祭壇”に、イエス・キリストを通して神に受け入れられる犠牲――父にとってこうばしい香り――をささげるべいである。(Ⅰペテロ2:5*)
*この聖句の霊のという言葉は、明らかな正当性を持つ最古のギリシャ語の写本the Sinaiticでは省かれている。霊の犠牲ではなく、人間的権利、特権、生命などが犠牲とされるのである。
こうしてすべての聖徒、すべての献身者は、“天上”又は“神聖”の状態に入る。――“天的な場所にキリストと共に座についた(平安を持って霊的に交わる)”――が、まだ“至聖所”に入ったわけではない。まだもう一つの幕を通り過ぎなければならない。前の幕を通過することが人間の意志の死を意味したように、第二の幕を通過することは人間の体の死を意味する。そしてこの両方は、私達の“犠牲”を完成するために不可欠なのである。肉の心と肉の体は両方とも、私達が“至聖所”に入り、神性とその霊的状態にあずかる者となる前に、捨てなければならないのである。なぜなら、肉と血は神の国を継ぐことは出来ないからである。(Ⅰコリント15:50、ヨハネ3:5、5、8、13を比較せよ。)
これら三つの場所、“宿営”、“庭”、“幕屋”によって象徴される三つの状態に関するこれらのことを頭に置いて、次にこれらの状態の下に来る三つの階級、すなわちイスラエル人、レビ族、その祭司によって模標される不信者、義と認められた信者、そして聖徒又は献身した信者を詳しく調べてみよう。
The
Tabernacle
Table
of Contents
- Preface
- Chapter 1 - Chapter 2
- Chapter 3 -
Chapter 4
- Chapter 5 -
Chapter 6
- Chapter 7 - Chapter 8
- Index